3・11は遠く離れた神奈川県でも日常では大きな影響を受けた。
拙寺のある市街化調整区域は原則家はないものと考えてか一日に6時間以上電気が止められた。
夜だろうと寒い日だろうと容赦ない。3月と言えばまだまだ寒さは厳しい。
よくも生き物が死なないで済んだと思う。熱帯性の魚類や鳥などもいたのだ。
夜ともなれば燭台をたててラジオを聞きながら過ごした。
福島がえらいことになるかもしれないからと放射能を恐れ、震災の三日後、母たちは飯縄山に帰ってもらった。
もし原発事故ともなれば何があるかわからない。
私も飯縄山へと言われたが、鳥や猫や色々な生き物を一挙には移動できないので私だけは踏みとどまることに決めていた。
たとえ何もできなくても捨てていくことはできない。
多くの人が波にのまれ火に包まれて死んだ被災地の人に比べれば。こんな話は全く生ぬるい話で実に申し訳ない限りだが・・・私の3・11は何があっても生き物がいるのでここからは絶対に退去しないという決意で始まったのである。
さいわい福島原発の方々が身命を捨てての対応で放射能が漏れて関東一円に広がることもなく、震災の数か月ほど前の暮れに耐震補強を思い立ち360本を超えるくさびを家屋に打ちこんだこともあって家がどうこうするということもなかったが、当時の思いでは何が起きても不思議ではないと思って過ごしたものです。
生き物を捨てていくなら飼わないくらいの覚悟は欲しいと思う。