ある意味、五体加持は究極の加持祈祷だと思う。
密教の行儀と言うほどのこともなく、次第自体は祭文や簡単な和製の経文でトランスに入る。
トランスに入るのは被術者だけではない。
被術者より以上に行者が入る。
そこでは基本形はあるものの、時には思いもしない被術者の行動や言動に出会い、戸惑うことになる。
その段階でシナリオにないからなどと降りることはできない。
芝居で言うならアドリブがうまくつかえるか否かということが鍵になる。
次第の内容自体から言えば僧侶として難しい修行をしなくても在家の行者レベルでもできるようなものだ。
だから自分でもっている術をここぞというところで展開し効果的にこなせないと結果は出ない。基本形はシンプルなるがゆえにそうなる。
かといって基本を崩してはならない大原則はある。
この法は「不次第をなせば魔衆たよりをうべし」といい、逆に逸脱のレベルで勝手なことをしても通用して喜んでいるうちについに魔に取り込まれる。
生意気はいけない、常に心に畏れを措く。
それが一番大事だ。
それがないものはしてはならぬ術だ。
そこが難しい。
だから学んだ祈祷の技と心の集大成なのだ。
また力みはいらない。念力とかは関係ない世界だ。
本尊や神霊そして本人ととつながることこそ大切だ。
だからあるていど信用の確立している関係、例えば「講員」以外の方は原則としてしない。
たとえば術をしながらこの場合はなんの真言が必要か?も要求されてくる。
時々教えてほしいと言われる。
次第を教えるのは簡単だがそれをうまくできるか否かは全く別な問題だ。
そういう術が身になっていなければならない。だからこなせる人、そうでない人の差はある。
そういうわけで私はお加持は伝授などと言うスタイルで教わっていない。
霊媒修行時代に何度も師匠から術を施されたということはある。それで憶えた。
ある日、師匠に呼ばれて行ってみたら「どうも体調が悪い。お前、お加持できるだろう。やってみろ」と実戦の庭で言われてやってみて、師匠が「うん、だいぶ楽になった。」ということではじめて師からはOKが出た。
そういうものだ。
当流ではお加持ができればまあ一人前といってよかろう。