最近は減ってきましたが、どこの街にも一人くらいは呪いや祈祷で知られる民間術者が昔はいたものです。まあ、多分今考えれば教派神道の教師や修験道の教会のようなものだと思います。
昭和の高度成長時代の日本、
科学技術の日本の中でどんどん忘れ去られていく存在でした。
いわば絶滅危惧種の仕事ですが誰もなくなるのは危惧しない仕事。
例えば子供時代に見たモノクロの怪奇番組「ウルトラQ」にもそんな祈祷師でてきます。日曜日の夕方6時TBSでやっていて大好きでした。
ウルトラマンシリーズの原点です。勿論監督は円谷英二さん。
その第15話「カネゴンの繭」と言う話のなかで女性の老祈祷師がでてきます。
予言をしてそのとおりにお金を食べる怪獣カネゴンになったガメツイ少年はめでたく人間に戻れるのです。
その場面に出てくる祈禱師のいでたちや祭壇は当時のそれのイメージの典型のようなものでした。
私の中では祈祷と言うとそういうイメージでしたから長じて修験道を学んでもせいぜい、私のような特に霊能者でもない平凡なものは自分のうちの四畳半にでも祭壇がこしらえて生きていければ・・・などと言うのが夢でした。
まあ、いまでもそれに毛の生えた様なものではありますが、お坊さんと言うイメージまではなかったんですね。
大学時代、得度してから友達に「お前のうち寺でも神社でもないのに、就職もしないでそんなことしてどうするんだ?」と聞かれて「立てるさ」と言って呆れられました。
勿論家でも父からは怒られた。
「なんだそれは?そんなんで生きていけるわけない」
父は子供時代に寺で過ごしたこともありましたが、宗教に対したはほとんど関心はない。その当時憶えた光明真言は言えた。
父は自分のしてた電車の車内装飾や椅子の会社を継いでくれると思っていたんでしょうね。祈祷師にならなくても私は興味のない仕事はする気はなかった。
まあ。お金持ちになろうとか言う目的はないんです。バカだし無理だから考えていなかった。
学校の成績はよいとはいえないが別に悪くても当時はやりのガリガリ勉強も一切しない。
興味のないことはしない主義だから。
私が得手だったのは絵を描くことくらいしかありませんでした。
だが当時絵描きは貧乏の定番のような仕事だと聞いていたのでさすがにやめておいた。
収入より一人で気楽にできる仕事がいいなと思うようなマア自分で言うのもおかしいが、「ナマケモノ」でした。
思い余った父はその道のプロの「霊能者」にお前が先行き本当にそういうものになれるのか見てもらえと言う苦肉の策を持ち出した。
父にしては良く思いついたものです。
まあ、なりたい道の専門家に見てもらえと言う考えなのでしょう。
答えは4人回って全員NOでした。「それみたことか!」といわれた。
でもそれで余計火が付いた。「全員がそういうなら絶対やってやる!」
負けずキライのひねくれもの、困った性格です。
おまけに霊能者とは言ってもこんなもんかと結果からは思うので、今でも霊能者の言うことはほとんど信じません。
占いの方が採用しますね。
人さまの霊能より自分のみた「幻覚」しか信じない。
まして一般人で「わたし、霊能があるんです。」という人には「ああ、そうそれはよかったですね。お帰りはこちら」でおしまい。
だってそんな私的世界は私、分りませんもの。
知らんわ。
実は我が祖父は民間信仰「いざなぎ流」の太夫でしたので四国でそういう暮らしをしていました。
小学生時代、一回だけ祖父の家に行きました。
やたら長い御幣があったり、わけのわからにものがおいてあったりで、とても強烈な印象を受けましたが嫌いじゃなかった。
だからなんとなく「いいな。面白そうで」と思っていた。
小学校低学年時代、友達に祖父の話をしたら「お前のじいちゃんは・・・それは妖術使いなんだ。たぶん。」と言われて、そうか…妖術使いなんだ。ふ~ン…と思っていたので教師から「将来、羽田君は何になりたいんだ?」と聞かれ「妖術使い」と言って呆れられた。
ま、いまでは似て非になるものだがそんなようなものにはなったのかなと自負しています。(笑)