縁あって真言宗の大徳 故永田覚範和上の伝法の末席に預かり、その折、善女竜王の聖地・室生の龍窟に赴き、個人的に少しお話しできて「荒神は不動行者、聖天行者は元より祈願をもっぱらにする者は必ず祀るべき存在だ」と改めて教えて頂いた。
このことは大徳の出された荒神供の次第にも書いてある。
ただ、その時は荒神供の伝法ではなかった。
「人数が集まれば伝授してもいいが・・・ひとりふたりではもったいない」といわれた。
それだけ大事にされていた。
わが師も荒神は家の不浄を除く力が最も大きいとして行をする者は大事にするよういわれた。
かくするうちに弁天浴酒の前行「修義」をするに及び、「荒神外に非ず、自身すなわち荒神なり」とあるのを見て大いに驚き、また納得した。
荒神は自分自身の煩悩の神格化であったのかと。
爾来、祈願においては最後に必ず荒神真言100辺を加えるのを自らの習慣としている。
日本の伝統では力のさほど強くない悪魔や悪神は調伏して帰順させる。
だが大力の荒ぶる神はこれを鎮め祀る。
「御霊信仰」だ。
天満宮や崇徳上皇、相良親王などなどがそれである。
だが最も調伏しがたい存在が荒神つまり我が煩悩だ。
密教ではこれを退治調伏しないで仏まで高める。
六臂金剛薩埵である「如来荒神」がそれだ。
つまり煩悩即菩提をあらわした存在である。
ただ三宝荒神は内心は慈悲で外面忿怒の尊、対して如来荒神は外面慈悲相でも内心は忿怒であるという。
慈悲はもっぱらにしても忿怒はどこまでも忘れてはいけない。
大忿怒こそが実にわが煩悩を仏性に昇華できるのだ。
大忿怒は欲望に基づく怒りではない。菩提心に基づく怒りだ。
菩提心に基づく怒りとはなにか。
根本煩悩である「元品の無明」にする怒りだと思う。
「元品の無明」あれば同時に本有自性の薩埵羅神「如来荒神」もいるのだ。
この二つは別ではない。
私は最期に100辺御念誦をしながら忿怒相の荒神が金剛薩埵に変じる姿を観想している。
「この金剛薩埵に変わりゆく荒神のうちにわたしもお施主さんもすべて入る。」
そう思っている。
精神疾患の祈願などにはこの観念は必須だ。
他にも何か方法があるかもしれないが私はそうしています。
祈願を志す者の秘訣のひとつだと思っています。