「無願三昧」のことを聞いて「我、ただ足るを知る。小欲知足が大事ということですね。」と言われる方もあるがそれは大いに違うと思うのです。
足りるとか足りていないとかを自分があれこれ考えないのが無願三昧と私は思っています。
わたしたちはあれが必要、此れが大事と四六時中そういうこと考えている。
死ぬまでそういう算盤で生きているのが人間。
「小欲知足」も詰まるところはその算盤のうちに入る。
足りるも足らぬも本当はわからない。
足りても足りなくても思うようなんぞならない。
だからあまりこまごまと考えない。
そこそこ困ればなんとかなると考え、困らねばそれでよし。
困ってもなんともならねばなんともならぬのだ。ただそれだけのことだ。
あくせく利口なふりをしても無駄だ。
本当は何も知らんのだ。
自分は。
我が働きは地にあれども、我が禄は天にあり。
良いと思ったことが良いことにならず、常々、嫌だ嫌だと思っていたことにあろうことか助けられもするのが人間だ。
利口のふりをしてもなんにもわかりゃせん。
法然上人のお言葉を借りるなら「知者のふるまいをいたすまじ」ということと同じかと思う。
ましてや良き行者を探し出し、金に物を言わせて上々の祈祷を行なわしめ、尊天に言うことを聞かせればこの世の栄華はすべて思うままなどと考えるのは愚の極みと思う。