昨日は母の百箇日にあたりますので「聖観音供」をいたしました。
聖観音様は拝みやすい。
心が明るくなる。
法華経の普門品にあるようにどなたでももれなく縁づく観音様。
これに対し十一面観音などの密教の変化観音は特殊な因縁によって出会う観音様。
だから密教の観音なのだと。
昔、師匠の篤信者が「十一面様の信仰を広めたいので、お守りに一般向けに何かインパクトのあるものを作って奉納したい」と言われたら
「それはだめだと思う。基本的に十一面観音は誰にでも拝めるものでも、広める性格のものでもない。」といわれた。
師匠は「素直で正直、愚痴言わない、怒らない、貪らない」と言うわかりやすいスタイルで仏道の信仰は勧めたが、聖天信仰や十一面観音の信仰自体を勧めるのはきわめて慎重だった。
この五つを守ろうと誓わない人はうちの信仰は無理だからと言われた。
したがって信徒さんに対しても「誰でも十一面さまや聖天様の信仰すすめて連れておいで、拝んであげよう」とは決して言わなかった。
むしろ「うちの信仰はむやみにひとを連れて来てはいけない」とまで言われた。
それでそのとき、その理由に十一面観音随願即得陀羅尼経にある「祝福薄きものはわが名をとなえることを得ず」と言う一句を上げられた。
理屈から言えば、色々難儀があり祝福が薄いと思うからこそ拝みたいのだが…まあ、この祝福とは観音様との縁のようなものを言うのだろう。
単に世間で言うラッキーな人と言う意味ではないだろう。
ラッキーなのはこの本尊に出会えたことをいうのだと思う。
師匠が言うには密教の変化観音はいずれも多かれ少なかれそのようなものらしい。
とりわけ変化観音の中でも馬頭観音と十一面観音は厳しいという。
仏教では娑婆はおおまかに六つの世界でできている。
それ等の世界をわれわれは自己の行為により行き来しているという。
六道のうち、地獄、餓鬼、畜生の「三悪道」は自らは信仰のなりがたい世界。ここに入ったら拝んでもらわない限り浮かび上がれない世界だ。
これに対し天、人間、アシュラは自分で信仰ができる「三善道」。
ただしアシュラは最低線だ、ギリギリ。
天台ではこれらの世界は包摂しあう複雑な関係。
だから人間界のなかにも六道はある。
六観音では十一面観音はその阿修羅の境涯の人を救う。
阿修羅とは自尊心のために戦う世界。自我の強いため衝突をする人々の世界だ。
だから十一面観音信仰を縁あってをする人はどこかに個性的で、それゆえ皆「修羅」があるいのかもしれない。
逆に聖観音は観音の総体としての比類なき普門の「徳」があるという。
これはまったく別な意味で素晴らしい。
聖観音はオールマイティなのだ。
拙寺が講員制度をとっているのも一つにはそうした師の教えによる本尊の特殊な性格によるものである。