神も仏も人を選ばない。貧富の差もなければ学の有無もない。
刑務所に入れられたような人でも懺悔から入ることはできる。
恐ろしい凶悪犯罪を犯して明日死刑になるにしても信仰は自由だ。
したがって信仰は誰がしてもいいはず。
信仰自体は誰がしてもいいですよね。
それは間違いない。
でも・・・・教団に加盟したり、祈願料を払い、葬儀を頼む。
こういったことは誰でも彼でも制限なくできるとまでは言い切れない。
何故ならこれらは内面の信仰に終始するものではなく。一面社会における経済活動を伴うからです。
お金が一銭もないのに葬儀は出せない。
祈願料を払えないのに祈願してくれとは言えない。
これは社会のルールです。
だから宗教にかかわるなら経済的にもしっかり自立していることかどうかは大事です。
お金のことを言うのは卑しく聞こえましょうがあえて言います。大事です。
なぜなら恒産ある経済は人として社会生活ができている否かかのバロメータのひとつがそれだからです。つまり社会人として一人前ということの指標。
社会が責任を終える人間としないような人も同じです。
たとえば錯乱していたり、アル中だったり、精神病で入院してたり ずうっと何年も失業してたり あるいは引きこもりで働けない・・・
こういう人には金銭を伴う宗教行為は難儀ですね。
下手をすると強制的に引き入れたようにも見えます。
お寺の檀徒や神社の氏子や崇敬会、なんらかの教団に属するというのはそういう社会の単位に属することになる。
でも信仰は心でしょうという。
それは真実だ。
だが心の問題だけで良いというのならそんな処へ入らなくてもいい筈だ。
そうではないですか?