仏教の講座に言ったら、カントだとか西洋哲学の引き合いが多くて仏教思想そのものがよく見えなかったというお話。
そういう講座は多い。説明している人間が仏教自体が判っていないで西洋哲学の目しかないからそうなる。
たとえて言えば「狸」を知らない人相手に日本で言う「狸」は英語で「ブッシュドッグ」と言うのだと説明しているような域を出ていない。
だが「狸」自体の説明がなければ狸がそういうものかわかるわけない。
まあ、知的なお遊びみたいなもんだ。
そんなバカバカしい講義を千遍聞いても仏教など分るものか
つまるところ仏教は実践だ。
理屈で終始するものを戯論と言う。
生きるのに役に立たないのは仏教としては死んだも同然だ。
よく○○を説明してくれと言っておいて、その説明で自分が判らないと「結局、相手も本当はわかっていないのだ」と言う人がいる。
こういうのを愚者と言う。
人の納得の水準は皆違うのだ。
ただリンゴは赤いで納得するものもあればどう赤いのか。どの程度なのかと聞いてはじめて納得するものもある。相手に無い概念は寄せ集めの説明でもできるものではない。
概念の多様性はゲシュタルト的構造によるものだからだ。
そこを我々は納得いく相互の水準を共有しようとして議論しているだけだ。
カタコトの外国語で話し合うようなものだ。
まあ。ヴィトゲンシュタインの言うようにそこは言語に対する概念の認識の違いだけと言えばそうだろうね。
有体に言えば理解しあえたという認識だけが理解だ。
だが雑音を言えばきりがない。そこをごちゃごちゃやれば戯論が複雑化するだけのことだ。