聖天様は最後の最後に頼るところという。
だからこそ叶わないものはそれが答えだ。
少なくとも今は叶わないということだ。
聖天尊に何か押し付けようとしてもならないものはならない。
昼夜分かたず二十一ヶ日の大浴油をしてもおそらくならないものはならない。
聖天尊の心こそわが心とすべきでわが心に聖天尊のお心を同化しようとするのは無駄なことだ。
ただ供養をうければいうことを聞くのなら基本は鳥獣とどれほども変わらない。
尊天は仏法擁護の大善神にしてそういうものではない。
尊天の御心をわが心として生きるの聖天信仰だ。
どんなにそう思わなくても聖天信仰を続けていれば必ずそこに突き当たる。
えてしてそうなるとあっちの尊天、こっちの尊天とより強い呪力の霊場を求めてさまようが愚かなことだ。
あるいは秘法めぐりだ。
でも本当はそこを越えねば信仰にはならない。仏教にもならない。
これは何信仰でも同じ事だと思います。