若いころ、電話で某新宗教の活動に入りびたりの御子息を連れ戻して欲しいという相談があった。
「説得して家庭にひきもどしてくれ」というのだが…聞けば息子さんももう成人しておられる。
私は無論その宗教と立場を異にするし、社会的にしていることも感心しないがそれとこれとは別問題だ。
帰宅祈願ならともかくあまつさえ信者でもない母親の要求で説得に行くなどということは毛頭考えない。
筋道が立たない。
それは弁護士とか警察に相談した方がいいと断ったら「助けてくれないなら、もういいです!」と電話を切られた。
そもそもこれは家庭問題として扱うべきであって、息子の不行跡に帰結するのは解決を見ないと思う。
ほかにもやみくもに相談している自分に味方して相手を攻撃せよというような相談があるが、傭兵のように是非なくお布施をもらって加勢するというのはもう宗教でもない。
「一方聞いて沙汰するな」である。
無論そうした是非の判断も微妙で本来仏に任せるべきで私がすべきではないだろう。
だから事態の収束としての「息災祈願」なら祈るがそれでは納得しない人もいる。
手ぬるいと思うのだろう。
誰でも自分に都合の悪いことは言わないものだしね。
なにごとも懺悔から始まらない話は難問題は祈祷すべきでないと思っている。
問題発生に至るまで相談者側の問題はなにか?
たとえば前述のケースで息子さんが新宗教に入れ込んで帰らない・・・そうなったのは何が原因かである。
そこを一顧だにせず問題は解決しない。
たとえキツク金縛りにして家から出さなくできたにしても何も根本問題は何も解決しない。
依頼者はそういうことを望んでいるのか知れないが、それはペットがよそにいかないようつないでおくような話だ。
だから問題発生においてただちに「この依頼をかなえなきゃ、どうすればいい?」と考えるモードに入るのはなく、この相談者がまず認識すべきだったのはなんなのだろうかをともに考える。そうでなければまた同じことだ。
「そんなことお前は関係ない。ぐずぐず言わず、拝んで置けばいいのだ」と言うような話は問題外だ。
宗教とはグズグズ説教いうから宗教なのだ。
それが嫌なら拝み屋さんだとかにしておくべきだ。