最近、霊狐さんから「仏像の開眼を軽く考えてはならない。まず先に仏は心で迎えるものだ。」と言う言葉をいただいた。
そういわれて思い出すことがある。
昔、駆け出しの20代の頃、20センチほどの白木の地蔵様を師匠に開眼してもらった。
今もって飯縄山に鎮座している。
その時は十一面供を伝授して頂いた後だったので21座をとりあえずしてお寺に伺ったが
師から「こんなことを言うのは失礼だが、今の段階では地蔵さまはアンタのとこには行きたくないそうだ。行けば大変なことがまっている。だからもう少し修行してもらわねば困るといっている。」といわれた。
一年くらい山へ行ったり色々やって「ウム・・・・まあ、いいだろう」ということでしぶしぶ許可してもらって頂いてきた。
万事がそういう調子であった。
最近は何でも開眼供養すれば本尊が家に来てくれるようにと誤解しているようだ。
だが実際にはそうはいかないのだ。
縁が整わないのに力ある仏像を無理やり祀りこんで、かえって災いに見舞われることもある。
今度は○○祀りたいので開眼してとか軽々と言うががそういうものではない。
たとえばなかなか縁談がととのわないからと言ってその目的で何百万円もかけて素晴らしい愛染明王像を作っても結果はそういうこととは全く結びつかない。
夢を壊すようで悪いがそういうものだ。
これからそこは歯止めをかけていこうと思っている。
なかには仏さまをフィギアか何かのように勘違いしている人もいる。
本尊の分霊を出すなら10年は拝まねばいけないとも言われてきた。
最近はそういうところは軽い行者が多すぎる気がする。
商業ベース的に考えているのだろうか。