なんでも自由に選べる。素晴らしいことだ。
すべての人類がそれを望んでいる。
でも何かを選ぶとき選択肢が多いほど選べないという事実がある。
人生において自由に何でもチョイスできるということにはそれもついて回る。
不動産でも山ほど物件があればなかなか選べない。
会社でも引く手あまただとそうなる。
見合い相手も山ほどイケメンや美女の写真が来たらどの人に会おうかなかなか選べない。
さらには何につけてもまだほかにいいのがあるに違いないと思う。
ところが人生に与えられた道と言うのもある。選択できないもの。
そこを自分の人生として生きていくのも人の生き方として大いにありだと思う。
例えば父母は選べない。
同時に生まれてくる子供も選べない。
子供時代によく言う憎まれ口に、あまり親から「産んでやった」ように言われると「産んでくれと頼んだ覚えはない!」というのがある。
恥ずかしながら私も言った覚えがある。
そうしたら母は「勝手に生まれてきて何を言う。誰がお前に生まれて来いと言った。別な子でもいいのだ。」
「なるほど まあ、それも道理かもしれない。」とバカなので妙に感心した。
選べるものと選べないものがある。それが理解できないのは危険な思い上がりだ。
人間にはなんでも自由にする権利がある等と言うがそれは社会的な話であり、天地自然の理に対してはそんなものはない。
大乗仏教の生き方は既にあるもの、選ぶ以前の存在は授かったもの。いったんそのまま有難く頂く生き方だ。
価値あるものは外に求めるというより自分がそこにいかなる価値を創造するか否かだ。
ゲームの始まりでどんなカードが回っていようともそこからどうするかは己次第だ。