宝篋印塔と地蔵尊を祀るのはどのように違いますか?と言うお尋ね。
何尊でもそうですがどっちがいいという優劣は全くないです。
すべて本質は大日如来ですから。両方あってもいいし、どちらかお祀りするだけでも不足はないですね。
ただどちらがより自分に向くかはその人の信仰目的や感覚的なものによると思います。
宝篋印塔も地蔵尊も滅罪生善に優れた力を発揮します。
宝篋印塔はどちらかと言うと宝塔ですから自分で動くものではなく、そこに帰依するものをすべて、有縁無縁を問わずに摂取して救済するためにお力を頂くのを本来とします。
とりわけ特筆すべきは施主がその亡者の名を唱えて、真言七辺唱えればたとえ地獄に落ちた人が業報の苦患をうける溶銅熱鉄の池も蓮の咲く清浄の池と変じ、その方の業の報いはたたちまち救済されると言います。
また鳥獣や虫のようなものも宝塔の影に入ればたちまち仏果をうけると言います。
地蔵尊は毎朝、地獄から天界までの六道 就中、諸の地獄を自ら歩まれて、積極的に亡者を救い上げ地蔵尊のお浄土である伽羅陀山浄土に連れ帰ると言います。
まあ、災害地に行くレスキュー隊員みたいな方です。
つまりこちらで認識しないご先祖や無縁霊もお地蔵さまに出会えば救済されていきます。
地蔵本願経によれば、慈悲の深いということでは観世音や普賢などの菩薩にも勝る無限の大慈悲の仏と言います。つまり救済対象を選ばないということでしょう。
それで錫杖をお持ちなのです。
錫杖は地獄を歩く杖です。
この錫杖は六波羅蜜すなわち布施 持戒、忍辱、精進、禅定、般若智をあらわし、この大乗仏教の修行法である「六波羅蜜」の体得者が地獄さえ踏破するものなのです。
すなわち地蔵さまが六度(六波羅蜜修行)円満の大菩薩です。
この故に「地蔵弥陀同一体 遍照十方利益衆生」として阿弥陀様とも同体と言います。
また地蔵さまは五部のうちには宝部の菩薩にして増益の功徳に優れ、諸々のよき宝を我々に与える誓願がおありです。
つまり物心両面の豊かさをもたらすお方です。
宝篋印塔も宝の塔ですから増益の功徳はもちろんありますが、実際はあまり積極的に商売繁盛などを拝む類例はないですね。
宝篋印塔は難しい病難などを除くお力は経典にシッカリ書かれています。
要求する対象ではなく宝塔から出る恵みを喜ぶのがその功徳だと思います。
お地蔵さまは人の姿をされていますから積極的に願いを申し上げるのは常のことです。
人の姿をされている尊格はそういうものです。