私の守護霊は先祖の真言宗のお坊さんである。
お坊さんといっても寺を持たなかった出羽三山の山伏である。やはり海号がついている。
それは高校生の時に石鎚山の行者さんに「あんたは先祖の坊さんに守護されている」と言われたからである。
そうかもしれないなと思うのは、のちに家が寺でもないのに出家して真言宗の僧侶になったからだ。
それとそのお坊さんが本尊にしていた阿弥陀如来の仏像が次男である私の所に来ているからである。
私の恩師はやはり良く守護霊ということを言っていた。中でも次のような興味深い話をしてくれた。
恩師の師匠k師は真言宗の学者であった。
ある時、寺の境内の草引きをしていると見知らぬ老婆が境内に入ってきた。
そして、k師を見るなり「あんたの後ろにはこんな霊がついている」というなり、顔をぐにゃっと歪めたそうである。
それを見たk師は大変驚いたそうだ。
なぜならその顔はk師の師匠にそっくりだったから。k師の師匠は晩年顔面神経痛で顔がひどく歪んでいたそうである。
k師はその時から本当に霊はあるもんだなあと実感したそうだ。
私の恩師はその話をした上で、だからこそ縁のある方々の施餓鬼供養をすることが大切であって、そうすることによって守護霊となって守ってくれると教えてくれた。
私もその時は20代であんまりピンとこなかったが、そのご先祖の施餓鬼供養は続けてきたので色々と困った時も助けてもらったのは守護霊のお力添えがあるなと感じている。
守護霊の供養ということは新興宗教みたいなのであまり言っていなかったが、自分自身のパワーが弱っているような人には良いので、そういう方には守護霊の施餓鬼供養をお勧めしている。それは守護霊がどなたかは分からなくても可能である。
膨大なお金をとって守護霊を授ける新興宗教があるようだがそんな必要はない。
一番大切なのは日々の感謝である。
これは伏見稲荷の眼力さんのお茶屋の女将さんに聞いたのだが、霊能者の砂澤たまゑ先生がお茶屋さんの神棚を拝んでくれて、あなたの所の神さまの格をあげるのは特別なことをする必要はなく、日々お給仕して拝むことだと言われたそうだ。これは守護霊も同じことである。
日々感謝の祈りを捧げ、時々に功徳を積んでご供養をすると自然にそのご加護が強くなってくるのである。
守護霊のはなし