昔、電話で「そちらで信仰したいんですがどうしたらいいでしょうか?」という話が来た。
事情を聞いたら「長年世話になっているお不動さんの行者さんが引っ越して遠くなるんです。それでかわりに・・・」という。
「あなた世話になっているお不動さんが引っ越したくらいで信仰の鞍替えするのですか?そんな信仰はうちでは通用しません。遠くてもたまにでもお参りに行けばいいでしょう?そういうのを恩知らずというのだ。」と言って断った。
関西の有名な聖天さんを信仰していたが転勤で東京へ移転して来たのでこちらで…という人にも、「では、また関西に帰ったらそちらに行くのでしょう。だったらその信仰を通しなさい。あなたはその時、その聖天さんにどんな顔をしていくのですか?
近いとか遠いとかで間に合わす。うちはそういう安易な信仰はお断りしています。」といっておいた。
「もうだめだ!聖天様に助けてもらいたい」と泣いて頼んできた事業家の方、
もちなおしたが、その後ぱバッタリと信仰をやめた。
紹介者を通じて言ってきた。その時は理由はわからず気をもんだ。
事情も言わねば願ほどきもなしだ。
だが、聞けば近所にも聖天さんがあるのでそこに行きだしたそうだ。
紹介者も憤慨していた。
だが、わたしとしては何かマズいことでもあったのかと思っていたので半分安心した。
「なんだ、そういうことかあ」
まあ、それだけのもんだったんだね。
その後、なんのつもりだか知らないがしばらくお歳暮なども送ってきたが、逐一歯の浮くような礼状書くのも邪魔くさいので「もう縁は切れておりますのでこのような、無用な気遣いは一切おやめください。」とバッサリ一筆書いた。
それ以前に挨拶するべき聖天さんに挨拶もなく何の歳暮であろうか。(笑)
私はどんな理由でもやめたい人をとどめおく気持ちはさらさらない。
ましてそういう人は止めるべくしてやめたのだと思っている。
だから別段の感情はない。
宮本武蔵ではないが「いづれの道にても別れを悲しまず」と思っている。
なかには「今やめたらせっかくよくなってきたのに・・・」と思うこともあるが口は挟まない。すでに当のご本人が決めたことだし、なにも相談もなければ聞かれもしないなら、もはやわたしの預かり知らぬことだ。
その代わり縁が切れたらもう一切関わらないと決めている。
遠いから・・・というようなことは信仰では関係ない。それを言うなら初めから近所にしか頼らないことだ。
カイラス山の周りを五体投地しながらお参りしているヒンドゥーの人もいれば、遠いメッカの血を目指して歩いていくイスラムの人もいるのだ。
まして日本は小さな国だ。交通網も発達していてそういう国々の比ではない筈なのにと思う。
私のブログでもよく掲載させていただく大森先生などは、稲荷信仰を始めてから毎月、遠い伏見の山に登ってお参りしている。
たとえ京都市内にいたとしても毎月のお山巡りは大変だ。
そういうのを信仰というのだと思う。