帰り、ある茶店で休憩した時に、そのお店のおかみさんからこんな話を聞いた。
京都で会社を経営している人が倒産の危機に至った時に伏見稲荷にお参りしてそれか持ち直したというのだ。
それからその人は月に3回必ずお参りを続けてると言う。
よっぽど、ありがたかったのだろう。
この人の感心なのはそれを続けているところである。だからご利益も維持されている。
ところが人というのは、困っている時には一生懸命拝むのにご利益を授かったらそのことをすっかり忘れて手を抜いてしまうことがある。
喉元過ぎれば熱さ忘れるである。
ここで信仰というのは試される。
ご利益欲しさに熱心で拝んでいたのに、かなってしまえばさようならというのでは、神様としても何のためにご利益を授けたのだろうと首をかしげるに違いない。
ご利益は信仰の世界に入るための門である。その人が道を歩む第一歩なのだ。
せっかくご利益が授かったのに御礼参りにどうしようと悩む話を聞いたことがある。本末転倒も甚だしい。
よく聖天様やお稲荷様が怖いという人がいるが、本当に怖いのは欲深い人間の方である。
砂澤たまゑ先生が「神様は人間が怖いと言って最近は出てこない」とおっしゃられたそうだが無理もない。