豪潮さんは江戸時代、博多にいたお坊さんで准胝独部法の普及と宝筐印陀羅尼宝塔の八万四千基の建立を果たしたという方。
無論この塔の数は小さな泥塔のようなものも入れてだと思う。
豪潮さんが、准胝仏母と宝筐印陀羅尼、この二つにこだわったわけは多分、深く自らの行いということを考える人だったのだと思います。
彼は博多に来ていた明国のお坊さんに頼んで具足戒を受けたという話があります。
これはきちんと証拠がある話でhないそうですが・・・
具足戒は大僧戒と言って上座部の250もの戒律に準じたもので、奈良時代迄はお坊さんになるための必須要件でした。
つまり一人前のお坊さんとはこの大僧戒を受けた人です。
これに対して天台宗では最澄さまが梵網戒経を基本に十重四十八輕戒を提唱しました。
これは中国の天台宗にはないことでした。
この菩薩戒を受ける者は大僧戒は受けないといいます。
その故に最澄さまはいったん受けた東大寺の戒律を捨てたといいます。
最澄さまはそれがために当然東大寺を中心とする奈良仏教とは激しく対立しました。
晩年はかって日本にもどこにもない大乗戒を授ける戒壇道場の設立に苦心され心労極まって亡くなったといいます。
ですから天台僧の豪潮さんが東大寺に行くわけにはいきません。
それでも彼は大僧戒は必要と思ったのでしょうか。明国の僧侶からこれを受けたという話が流布しています。
もしもそうだとすれば彼はわざわざそんな細かい戒律をうける一方で准胝独部法のように酒を飲み肉食し妻帯した俗人の生活のままでも構わないという最も縛りのないだれでもできる法を普及しました。
准胝独部法はおそらくもっとも易行の密教修法でしょう。
※ 愚僧所持の准胝鏡
又宝筐印陀羅尼のように俗人がわずかに七辺唱えるだけで地獄を破って亡者を助けられるという莫大な功徳さえあるこの陀羅尼をも信仰し、広く人にも勧めました。
※ 当院頒布の小さな宝筐印塔
つまり自らはもっとも厳しい戒律を選びながら、人々には最もやさしい修行法を提唱したのです。
それはなぜでしょう。
おそらく、自他をしてあくまで仏道の成就を確実ならしめる道をしめしたかったのだと思います。
この着眼は正しいと思います。
当院でも豪潮さんに準じて講員様には独部法と宝筐印陀羅尼宝塔の信仰をすすめております。
この二つさえ押さえておけば誰でも可能な最も確実でやさしい密教修行になりますから。