天台大師の摩訶止観には修行者が陥ってはならない十種類の心が説かれています。
大変興味深いので皆さんとともに見ていきたいと思います。
十非心
我等いま衆生と共に大菩提心を起す。先ず十非の心相を簡却すべし。凡そ十非の心相とは
一つには その心念々に貪瞋痴を専らにして、之を摂すれども還らず之を抜けども出でず、日に増し月に甚だしうして、上品の十悪を起すこと五扇提羅の如くなるは、これ地獄の心を発して火途道を行ずるなり
煩悩の極めて激しい人。これを摂すれども還らず これを抜けども出でず
つまりもう制御できない、我慢できない煩悩の激しさに狂ったように翻弄される。
しかもそれが毎日毎月と激しさをます。
それを「薫習」という。
香りが染みつくように程度が増していくんです。
これは悪事だけでなく善行にも言います。
物事は止まっていない。もっとひどくなるかよくなるかしかない。
こういうことはありますね。お酒ひとつにしてももうどうにも抑えられない人がいます。
呑まないでいられない。
我慢していても飲んだら飲んだでそれをはばかるばかりか、「飲んで何が悪い!」とばかりに罪悪感から逃れたい気持ちになり以前にもまして呑む。
そういう繰り返し。
開き直ってますます悪くなることがパターン化する。深く深くよくないことに染まる。
これが道心であるわけはないけど人の心理を実に心憎いまでに表現している。
こういうのは生ぬるいことをしていては駄目です。
たとえば、盗みをして止まないなら、気持ちの上では本当にその手を切断するほどの勇気がなければ抜け出せない。
もう意識しないで自然と万引きしてしまう人とかがそれですね。気が付いたらもう万引きしている。
以前少女に性的暴行をして死なしめた犯人。
牢屋から出れば「また同じ犯罪を必ずやってしまうと思う」と言っていましたがそういう人間はいるんですね。
もう魅入られているというか、コントロールができない。
そういう人は魔物がついているかというとそうではない。
自分を立ち直らせる力がないんです。
「五扇提羅」とは未曽有経に出て来る破戒無慚の五人の僧侶。
そういう人は要するに地獄に行くわけです。
地獄と言うと閻魔様がお裁きで悪人を落とすのだと思うけど実はそうじゃない。
自分で行く、自分が作る地獄です。罰としていくわけじゃない。当然の帰結としてそうなる。
閻魔様は人間の良心の神格化です。罪悪感の神様表現。
動物は地獄に行きません。罪悪感ないからね。
地獄図で犬や猫や馬が責められているのはないですよね。
一見動物に見えても前世で生き物イジメた人が動物化して同じ目に合う追体験するだけです。
だからそういう日常を反省なく行う人は「火途道」という十悪の修行をしているようなものです。
ここにいう上品の十悪と品がいい十の悪事という意味ではないです。
一級品のピッカピカの十悪、つまり最も甚だしく悪い行いという意味。
この辺りは修行の心でないのは当たり前ですが「十非心」には実に深い人間観察が見られます。
あるある感満載です。