金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

十非心 その2 血途道

「二つには その心念々に眷属多からんを欲し、海の流れを呑むが如く火の薪を焚くが如く、中品の十悪を起して調達の衆を誘うが如きは、此れ畜生の心を発して血途道を行ずるなり。」

 

海がすべての川の流れをいざない、火が薪をもってごうごうと燃え上がるように威勢をはってなるべき多くの人が付き従うことを喜ぶ、

ちょうど群れる動物がボスを争うような心

これは調達つまり「提婆達多(デーヴァダッタ)」のような心だという。

提婆達多はお釈迦様のいとこですが仏伝物語では悪役です。

 

何かにつけて自分より優れているお釈迦様を憎み、嫉妬して、最後には狂ったゾウをけしかけて殺そうとまでたくらみますが、ゾウはお釈迦様を襲わず、自らは大地の割れ目に飲まれて生きたまま地獄に堕ちたといいます。

 

実際の提婆達多は釈迦教団に在籍していたけど、山林修行のさらに厳しくあるべきことを主張して釈尊に背いて教団分裂を図った人といいます。

 

それを仏教では「和合僧を破る。」といいます。

つまり僧団をかく乱分裂させることは 仏陀の身を傷つける。母を殺す。父を殺す。阿羅漢を殺すに並ぶ「五逆罪」(内容は出典により差異がある)という極めて罪業の深い行為のひとつとされますが、これは提婆達多の行為によって設定されたといいます。

 あるいはそういう人がほかにもいたのかもしれません。

 

十非心ではそのような行為も結局自分にすべての人がしたがわせ、サル山のボスのようになりたいという心から出るというのです。

 

いわゆる「教祖様」というのはそういう人が少なくない。

無論全部じゃない。立派な方もいらっしゃいますが・・・

悪いタイプの教祖様は自分のいうことは絶対で従わないと教団内で徹底的に指弾攻撃するようにさえ命令する。コワ~イお方です。

その攻撃への参加もを拒否すれば同じ対象になる。

慈悲もヘチマも愚かなプライドの前にははげ落ちてしまうメッキのようなものです。

本質的には人のことなど何の関心もないサイコパス的な人物。

 内心はいつも人が自分を100パーセント受け入れてくれないと傷ついてしまう脆弱な自我、根拠のないプライドからできています。

根拠がないから前世は偉人だとか、神の生まれ変わりだとか言って従わせる。

それでその絶対権力に逆らえば些細なことにも極めてヒステリックになる。

教祖様でなくてもそういう人いますね。宗教でなくてもこういう人が団体のボスになれば最悪だ。

 

昔、大きな本屋である教団の雑誌があってそれを見て驚いた。

後ろの方に追放したり処分する人の名簿がずらりと並んでいる。

それも処分と言ってもだれそれは神の世界から追放とか、降格とかそういうことが書いてある。なにがあったかは書いていないがそれもすべて教祖様の一存です。

気に入らない人は名前を晒してでも辱めたいのでしょう。

 その雑誌の名前が「慈悲と愛」。

笑えるね。

 

でも私はもうそういう教祖様崇拝の時代は終わりだと思っています。

そういう教祖様は自分のいうことだけ聞いていろ。もう自分の頭で考えるなと言いたいのです。要するに人をロボットにするようなもので、そんなところに何年いても人としての成長などありません。

むしろ知性理性が退化してバカになるだけ。

一番いい例がオウム真理教。

皆、頭のいい人がロボットのように理性も知性も失い、無益な人殺しを進んでやった。

やったことがやったことですから死刑になるのは仕方ないけど井上容疑者などは10代の若いうちから道を求めて麻原の教団にはいり、麻原教祖に洗脳されて殺人マシーンになった実に哀れな人物です。

まともな信仰していればあるいは優れた宗教者になったのかもしれない。

 

えてしてもう考えなしに霊感お告げ信仰になる。なにごとも教祖様に聞かないとダメ!ということに。

以前呆れたのは「犬を買っていいかどうか?」聞きに来たひとがいた。

子供が子犬を誕生日にプレゼントして欲しいというのを私に聞かないとダメだと押さえておいて聞きにきた。

そういう人は箸の上げ下ろしまで聞きにくるんですね。

「飼いたきゃかいなさい。そんなのあなたの自由でしょう。」といったら

「でもいいとか悪いとかないのですか?」というので

「ないね。それを決めるのあなたで、私じゃない。だって飼うのはあなの家なんだから。」といったら「エ~」と怪訝な顔して帰った。

それで後日、私が本当のこと教えてくれなかったと落ち込んでいたと聞いた。

アホと違うかと思いました。

 

そういう宗教から来た人は大体そんな風です。メンド―で嫌だね。

自分でかんがえなよ。

色々な宗教があるけど仏教はそういう宗教じゃない。

うちいちいちお告げとか霊感で決めるのは喜ぶ人はいても意味ない。

そういう人には何の魅力もないところです。

 

話を戻しますがこういうここは動物と同じだといいます。

群れ集う人も人間菜緒に考えなくなるから動物並みになる。

血途道というのはそういう少しでも損益を集ま体という争う心から生まれる。

 

因みに悪役、提婆達多は法華経では復権して、その実の姿は前世ではお釈迦さまの師匠で、この世ではわざわざ反面教師のような役をしてお釈迦様を導いてくれた。

未来は天王如来という仏になるということになっています。

ここをよりどころに法華経の精神は五逆一闡提も成仏するというのです。