「五つには その心念々に世間の楽を欣んでその臭身を安んじ、その痴心を悦ばしむるは、此れ中品の善心を起して人道を行ずるなり。」
ここにいう人道を行ずるは人道的行為をする意味ではなく、普通の人のありようが語られてるのです。
そもそも人と言うものは…という意味です。
世間的な喜びを求めてやまずというのがその第一。
「世間」に対する対語は「出世間」です。
どう違いますか?
「世間」の楽は読んで字のごとく、人と人の「間」に生ずる喜びです。
立派な家に住みたい。人より収入を得たい。身なりもよくありたい。
人より優れていたい。社会的に優遇されたい。
これらは究極は人に認められたいということ。それが世間の欲望。
それでも人間の欲はおおかたの動物のように生理的欲求だけではない。
認められたいので時には無理もすれば生理的なものも我慢することもある。
それが人間。
これに対して「出世間」とはそういう人と人の関係を離れた世界です。
自分がひとりでいかにあるべきか。何をよりどころに自分はあるのか。
そういうことです。
道徳とは違います。道徳は良い意味の世間です。
相手がないのだから善不善を超えている。
それも生死を超えたところをいいます。
以前クムドセヤドという三ヤンマーの上座部仏教の高僧をお迎えした。
セヤドというのは高僧 上人の意味だそうです。
それでその高僧をお招きして瞑想会をしました。
大変清らかな感じの方でもう世間的欲はほとんどない。
欲はあってもせいぜいおなかが減るとか、眠いとかそういう生理的なものでしかない。
目も青い秋の空のように澄み切っている。
これは出世間しかないんですね。
だからお布施してもお礼は言わない。
弟子が「あのひとお布施あげてもお礼ひとついいませんね。」といいましたが、それでいいのです。
本人にしてみればお布施を受けてあげるということで「ありがとう」ではないのです。
ありがとうはこちらが言わないといけない。
大乗仏教はそうは言わない。
世間も同じように重んじるんですが・・・
だけど普通の人は世間しかない。世間を超えた価値には想像がおよばない。
その最たるものは「死ねばおしまいでしょう?」という人生観。
人はおおむねそういうところで生きている。
そして自らの肉体と心を喜ばしむる追及に明け暮れて「財 色 食 名(誉) 睡(眠)」の五欲の奴僕となって一生を送る。
人間は地獄、餓鬼、畜生、阿修羅や鬼神にも優れた境涯ですが、でも五欲のとりこで終わればその境涯は下がっていく。
甚だしくは三悪道に堕ちる。
だから修行者はかかる生き方に明け暮れしてはならないと十非心は言うのです。