「 十には その心念々に善悪の輪環、凡夫は耽めんし賢聖は呵するところ、破悪は浄慧に由り、浄慧は浄禅に由り、浄禅は浄戒に由ると知って此の三法を尚ぶこと飢たるが如く渇するが如き、此れ無漏の心を発して二乗道を行ずるなり。」
いよいよラストです。二乗とは声聞 縁覚の道を言います。
声聞は原始仏教時代の釈迦の直門、縁覚はその後の部派仏教から上座部までの聖者をいいます。
おそらく「十二因縁」を悟る故に縁覚というのかもしれません。そこはまだ確認していないのですけど・・・。
ここにいう「善悪の輪環」が「十二因縁」をさします。
無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の十二の人生展開をしていう。人だけでなくすべての生き物がこの輪環によって存在する。
善悪の因縁の展開。
凡夫はこれを善かれと願いますが、阿羅漢を目指す修行者は離れることを願う。善悪にかかわらず因縁を消滅させる。
そうして六道の輪廻から離れることが解脱。
上座部仏教ではこの十二因縁を順観、逆観することによって解脱のよりどころとするといいました。
実際の上座部にはそういう単純なものだけでなくいろいろな観法がありますが中国には上座部は伝わらなかったので阿羅漢はこの観法による解脱をすると考えられました。
すなわち衆生は無明煩悩より生まれ、行為=カルマによって存在し
心識を宿し、名と形を備え、眼 耳 鼻 舌 身 意によって外界に接し、触れ、受け取り、そこに好むと好まざるとの分別をし、好むところを選択してその生存をなす。而して老いて死すればその繰り返し。
かくして輪廻は永遠にやまない。
それを厭い望まねば解脱につながる。大雑把に言うとそう考えます。
定慧を尊び、智慧は定(禅定)により起こり、禅定は戒を守ることにより成り立つと考えます。
これは仏教だけでなくインドの基本的な瞑想修行の考えで、瞑想は必ず戒律を先に伴います。
ヨーガでも八段階の最初にはヤーマといってしてはならない行ない
次には二ヤーマと言って行うべき行いが規定されています。
放埓な生活をしていて瞑想をしても効果はないと考えるのです。
これは宗教である以上は当然のことです。
三宝とは仏法僧です。
これらを飢えたるが如く渇するがごとく求める。
それはなぜか、解脱したい一心だからです。
しかしながら、それもまた執着であり新たなカルマを生むものに違いないのです。
大乗仏教ではこのありかたを良いとはいわない。
二乗すなわち声聞縁覚などの阿羅漢は自分だけの解脱を図るものだが、実にはそうした解脱はあり得ないと大乗では考えます。
なぜならそこにはすべての生命との一体感がないからです。
大乗仏教はすべての存在は個別には存在しえないと考えます。
悟りもまたそうです。
つまり阿羅漢たちも究極は輪廻の輪からは逃れないと考えるのです。
無論長い間、無色界などに転生しているでしょうが、やがてはそれも業報尽きればまたまた輪廻の旅路に出るのです。
日本にも阿羅漢の信仰はあります。
500羅漢などがそれですが、これは実は釈尊が究極の教えである法華経を解くと聞いて、いまでの法で満足していた500人のお弟子たちが大いに疑問に思って釈尊のもとを去ったことによります。
彼らは上座部仏教の教えを貴ぶ人たちで阿羅漢の域に達する達人たちですが、それゆえに愛想をつかしたのでしょう。
だが釈尊はあの五百人もやがては仏陀になるという「授記」を与える。
いままで見てきたように様々な教えや境涯があり、此れも違う。あれも違うと十非心は説いてきました。
ですが仏陀の縁に触れたものは皆等しく、いつの日か仏になれるのです。
ゆえに五百羅漢はいかなる教法も最終的には大乗の法に漏れるものはないのだという法華経の「五百人弟子授記品」による造像です。
ですから法華経を大乗仏教を否定し拒んだ羅漢もすべて摂する教えなのだぞということを忘れぬように五百人の羅漢をもお祀りするのです。
十非心の最後は「破戒の心は地獄に堕し、慳貪の心は餓鬼に堕し、無慚愧の心は畜生に堕す。若しくは心、若しくは道その非甚だ多し、いま之を簡び、無上第一義のために金剛不壊不退の誓願を発さん」と結んであります。
おしまい