今回のお施餓鬼は地蔵供に加えて七日間精霊供養までやってよかった。
通り一遍の供養では無理だったし、自分のクリアリングにもなってずいぶん楽になった。
やってみないとこればかりは普段はわからない。
供養は成功すれば人のことをしても自分も楽になるものだ。
そういう意味では皆様のおかげでさせてただいたということにもなる。
実にありがたい。
精霊供養は最近は弟子に回しているのであまりやる機会がなかったが年に一度はして置いたほうがいい。
この精霊供養というのは余儀にあらず一般に言えば施餓鬼作法です。
ただ呪術的な道具立てや口伝が色々付随するだけで作法自体は同じものです。
不空三蔵の施餓鬼の儀軌を底本にしている
施餓鬼は僧侶は本来毎日すべきものというものになっている。
だから一般お施餓鬼作法を「如法」にすれば同じである。
「如法」の一番大事なこと作法以上に法とその背景を信じることである。
だから「如」 そのままという文字が付く。
施餓鬼は餓鬼というものがいなくてはなりたたぬ。
八部衆などの鬼神や精霊や亡き人の仁禮などの存在を認めるのは八正道の正見に属する。
今の僧侶の大半はそんなことを言えば噴き出すだろうけど。
だからそういうことをまじめにできない僧侶は人の業障を扱いながらそのクリアリングができずに思わぬ障害に合うことも多いと私は思っています。