密教ではイメージを使う。
種字と言われる梵字、本尊の働きを示す三昧耶形。具体的な仏菩薩の尊様。
真言の語感から受けるイメージ。印相の形、意味と結ぶ感触。
道場観と呼ばれている世界観。
逆に禅はそういうものをすべて離れる。
特に曹洞宗の禅の考えはそれだ。
全く違うようだが実はイメージを正しく使うなら離れられないと無理だ。
「莫妄想」である。
天台では両方やってきたが、止観と密教併修の意味はそこにあるかも。
天台密教の一つの特長だ。
だから密教者でもイメージを断絶することができないといけないと思う。
最近はそこに課題を置いている。
特に体調不良であればイメージは暴走する。
心身の不具合、痛みや辛さとイメージを分けないといけない。
精神分析の様に内部のイメージから情報を取るのはこの場面では無用である。
さもないとイメージは熱に浮かされたうわ言のようなものに変容してしまう。
だから自主的に遮断できることが必要だ。
普段からそのイメージの氾濫や駄々洩れが起きている人がいる。
芸術やアートならいいだろう。というよりそれは歓迎すべきことかもしれない。
だが、それで自分で霊能者だと思っている人もいる。
甚だしきは熱にうなされたうわ言のようなものをお告げだと思っている。
むろんその中にもとるべきものがある人はいないわけではない。
だが玉石混交で判然としない状態。
それでは霊能は使い物にならない。砂金の様にえり分ける必要がある。
ほとんどが無駄な砂で金はわずかだ。金まるでがない場合もある。
霊能修行とはひたすら砂と金、玉と石が分けられるようにするための修行だ。
霊能開発修行ではない。
霊能者になるならベースの霊能自体はすでにないと話にならない。
習えるものではない。