私のところでは春と秋のお彼岸に宝篋印陀羅尼法を修行してご供養しております。
その時に施主には簡単な供養法をお伝えしております。
そこには宝篋印陀羅尼法で中心となる真言が書いてあります。
これは宝篋印陀羅尼の最後の部分です。
たまにこの真言ではなく長い陀羅尼を唱えて良いかという質問を頂きます。
ご存知でしたらどうぞとはお答えしています。
しかし、なぜ私がこの長い陀羅尼を供養法に書いていないかと言うと、主に三つの理由があります。
一つは長い陀羅尼だと人によっては自宅での供養が困難、かつ継続できない場合があるので。
一つは、前述の通り宝篋印陀羅尼法の中心で唱えるのはこの短い真言だからです。
もちろん長い陀羅尼も唱えるのですが、本尊加持など重要な部分はこの短い真言です。
一つは、どちらを唱えても功徳は同じだからです。
江戸中期の高僧、浄厳大和尚の後継者である蓮体大和尚がかかれた『宝篋印陀羅尼経和解秘略釈』には、
「大日経に曰く阿字とは一切の真言の心なり。これよりあまねく無量の諸の真言を流出すと。しかれば一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼というはこの阿字より流出するなり」
と書かれています。
阿字は梵字の「あ」のこと。
だから元々は「あ」と唱えればそれで事足りるのです。
梵字 あ
これは宝珠の真言でもあり、すべての功徳が具わっています。いわば究極の真言です。
しかし実際それでは、私たちの機根では修行し難いので、それが展開してそれぞれに応じた真言陀羅尼となっていったのです。
ですから真言陀羅尼の長短というのは功徳とあまり関係がありません。
どんな真言でもどんな陀羅尼でも一番大切なのは信じて唱えることです。
信心には决定(けつじょう)の義があります
ご縁のあった真言陀羅尼を、迷うことなく唱え続けるのです。それが功徳を授かる早道です。
豪潮大和尚筆
宝篋印塔によく刻まれている梵字
「シッチリヤ」と読みます。
宝篋印陀羅尼の出だしの部分
ノウマク シッチリヤ
からとったものです。
これだけ唱えても功徳はあります。