金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

寂として見つめる

仏智の本質は哲学ではありません。知性の産物ではない。故に思考からは生まれない。
さりとて、また神秘体験や変性意識状態から生まれるのでもないと思います。仏教の観法はいわゆる瞑想とは違う。別な存在と知らないと誤る。
そういうものから生まれるのは一時的な興奮で終わることが多い。
そのせいか霊能者は密教なんかはに入りやすいが至りにくい。
仏がいつまでも、どこまでも、外にあるからそうなる。
だからいつまでも見えた、聞こえたレベルでおしまい。
前に勧めずそんなことだけを嬉々として報告してきます。
ゆえに霊能はあっても構わないが、「私は霊能があるので・・・」から始まる人は仏道修行はさせられない。
酷いのは自分の幻覚妄想で彩られた「霊能」の延長に仏道のさとりもあるのだと思い込んでいる「ビョウニン」です。

金剛般若経に色をもって我を求め、音声をもって我を求めるもの この人は邪道を行ずと言うとおり。

そこではない。
仏智は寂かな観察からこそ生まれるものと思います。
寂として人と法とを見つめる。