この流れに日本は属さない。
日本では檀家離れが激しいというくらいだ。
参ることが主流な神社信仰もコロナで低調だ。
日本の場合は教義による宗教というより情緒による信仰なのだ。
隆盛をみているの排他的な傾向の強い一神教のセクトのみだ。
特にキリスト教から離れた欧州各国におけるイスラムの台頭は目覚ましい。
創造主という存在からの承認欲求が高いのだろう。
それは民衆が現代という複雑な時代に自分で価値を模索することにもう疲れてしまっているともいえる。
そこだけは仏教や神道に回帰する日本の一部の人たちにも同じ構造があるかもしれない。
ただし、一神教は理解しやすい。比するに仏教は踏み込むほどに難しいし、神道は明文化された教義は持たない。現代日本におけるそれは価値観の模索以上に多分に思ってもいなかった知的探求の旅であるかもしれない。
宗教と言ってもみな違う。唯一の正しいことを掲げるのは多様性の時代に望ましいと思っていない。
そこには慈悲や愛よりも創造主の提示したというあり方の是非ばかりが強調され、厳しい制裁さえも用意されている。
仏教はそれらとは違う。創造主のために我々がいるのではない。
我々のためにホトケがましますのだ。
ホトケの言うことを聞かないからと言ってホトケが罰することもない。
ホトケは人が堕落してもノアの洪水や背徳の町ソドムとゴモラの滅亡のようなことも起こさない。
むしろそれら災いに至らぬ道を提示している。
ホトケは背徳を見て罰するのでは無く基本的には悲しみあわれむものだ。
ホトケはただ我々に真に幸せになる道を提示しているだけだ。
最近の宗教流行の構造はグローバリズムと似ている。
かくして民族文化は滅ぶ。キリスト教もイスラムも実際そうしてきた。
価値は限定され危険な時代が来る。
いかなる宗教も無宗教も自らの範囲で信仰している人間を不当差別してはいけないが、社会的に破壊活動を企て不穏な思想をいだくものは監視し警戒すべきは当然だ。