世の中で病難というのは最もつらいことのひとつだと思う。
生駒聖天宝山寺を開いた湛海律師は江戸で大きな病を得て、これは「さては縁を切ってきたと思う歓喜天の障碍ならんか?」と疑う。
元来が不動行者であった湛海はたびたび「自分を祈れ」と執拗に迫る歓喜天に辟易して弟子に後を譲って江戸に来たのだった。その際、歓喜天は深く恨む様子であった。
宝山寺を去る湛海律師に「お前は私を捨てていく。だが私はお前を捨てることはない。」と恨み言を言われたという。
その歓喜天が病に苦しむ湛海の前に再度出現して
「何か不都合があるからと言ってそのつど私の障碍と思うな。そんなことは思っていない。この病は宿業なれば私とてもいかんともしがたいのだ。」と言ったという。
湛海律師にしてもこれである。
まして凡俗の我らはいうまでもない。
いかに信仰深くても何事もなく幸せということはない。
病にかかわらず時には大きな困難にあって途方に暮れる。
人間には何とかなることとこれはどうすることもできないということがある。
そういうことがあったとしてもその信仰が間違っている証拠にならない。
正しい信仰なら一生涯なんの災いもないものと信じるのは極めて幼稚な信仰だ。
人生は決して平坦ばかりでない。時に信仰は宿業の山道を登る杖である。