今までは霊障は一切扱わないという立ち位置でやってきました。それは別に変えない。
だけど私から見ると霊障なのに気が付かない人
霊障ではないのに霊障だと思う人色々だ。
霊というと大雑把ですが若しも先祖霊とか水子霊とかを限定して言うなら追い払うのでなく供養です。
先祖が浮かばれなくても子孫を故意に苦しめたいとは思わない。子孫は遠い子供ですからね。
今の親にはトンでもないのがいるけど昔は親子の中にはちゃんとあるべき筋道があった。だから子孫は慈しむべきものであるというのは変わらない。
今はそういう日本の習慣や伝統が亡くなってもうめちゃくちゃだ。
文化大革命並み。
最近は特に平等だとか差別撤廃とか言うのの行き過ぎで拍車がかかる。
ま、そんな話はさておき、仏典で霊の障りみたいなのがあるかというとそういうの菅見だがあまり見ない。
地蔵菩薩になった娘は地獄に落ちた母のために礼拝を繰り返し、目連尊者も同じく母のために千僧供養をしたが、いずれも祟られたからではない。
だから供養こそすべきのだ。
仏典では先祖の祟りとかは書いてない。
もう一つの霊障はいわゆる魔の障碍、こちらは人間でなく別な生き物。
仏教でいう悪魔は組織だっているとは限らない。大魔王サタンの下に統率されているとか、鬼滅の刃の鬼舞辻無残みたいのはいると限りません。
まあ、ただハイエナやハゲタカみたいに集まることはある。
おおかたは悪魔というのがいるわけではなく、そういう霊的存在とのトラブルを魔障というのです。
まあ、一番悪魔のイメージに近いのはビナヤキャですね。
魔が好むのは自己喪失。
自己否定や恐怖や劣等感・罪悪感が解消できない状態。
逆にその反動で増上慢や他者に対する侮蔑をあらわにした生き方をしてごまかす。
自分が見いだせずひたすら自分以外のお金とか地位とかに価値があると思う生き方。
これらはひっくるめて自己喪失、それがアンカーです。
そういうのが一切ないのには悪魔は悪さしない。
まあ、目に見えない世界のチンピラのような者。
そういう心理状況がベースならいくらか悪魔払いしても時間のもとにもどる。
だから要は三業清浄のほかにはないんですね。
心が晴れ渡ればそういうのはなくなります。
そこで大事なのは仏教へこころすることです。
もちろん心が晴れ渡るならほかの神道とかでもでもいい。
神道では赤き心という。丹心ですね。
今回魔除け守りを出しますが、自分の心の管理は自分がしないといけませんよ。