戯論に終始していた学生時代
キャンパスで年上の学生からある宗教の勧誘にあった。
ひとしきり議論して自分も信じているものがあるというと・・・
「そもそも君は信じているものがあるがそれが絶対だと言えるのか?」といわれた。
「あなたはどうですか?」
「それは確信をもっていえる。」
「へえ・・・そうなんですね。」
「そういう君はどうなんだ?」
「全然。」
「全然いえないだと!?だったら素直に君もこの真理を学ぶべきだ。」
「お断りします。」
「なぜ?ホントの真理を知りたくないのか?」
「私は自分にそもそも絶対に正しい真理なんかを見る目があると思っていない。」
「ならなおのこと入信して学びなさい。」
「わからない人ですね。
だからわたしにはあなたのいうことも正しいという判断ができない。
私が分かるのはあなたが自分が正しいとおもっているんだなということだけです。
誰を信じるのも一緒です。でも一番責任がないのは自分の所信を信じることですから、これからも私はそうします。さようなら。」
ついでながらこうした考えは基本的に今でも同じだ。
色々毎度御託を並べているが、私がそう信じるだけでわからない。
分からないから信じるのみだ。
宗教だからそれでいいと思っている。
よって人様に差し出がましくこれを信仰しろなどとは思わない。
布教と言っても結果は共通了解の世界だ。
理解できないものは叱られようが罵られようが理解できないのだ。
だからいつも言うように「そのようなことは私の知ったことではない」なのだ。