そんなわけで学生時代、宗教の勧誘をうければ他流試合のようなくだらない議論をしていたがそれも今考えればくだらないはくだらないのだが必要なくだらなさだったと思う。
それはなぜか。
徹底して疑問に思うことを考えてみるという癖がついたからだ。
理屈っぽい若者をよくもわが師はいちいち相手をして答えててくださったと思う。
その師がなければ私の今もなかった。ありがたいことだ。
そんななかで師が下さった最も素晴らしい答え。
それは「それはわからないや」という答え。
私はそれまでトコトンわからなくてはいけないと思い込んでいた。
だがわからくていいんだ!
わからないものはわからないのだ。
そんな当たり前のことにえらく感動した。
宗教論議と言えば神様の代理をしてしまいがちだ。
しかしそんな無理なことは神仏は望んではいないに違いない。
一挙に肩の力は抜けて、それから宗教論争の他流試合は一切やめた。
挑まれても堂々と知りません。わかりません。で通した。