亡くなって各方面から絶賛を浴びる寂聴さん。
惜しい作家が亡くなられたというのはそうだと思う。
人生の達人であり大変に優れた人であろう。
波乱に満ちた堂々たる生涯だ。
瀬戸内さんの小説は読んだことないけど叙勲まで受けられた偉大な方だ。
人が亡くなればどうあれ悼むのが同じ人間だ。人として当然。
そこはそうだ。そして私も人として深くおいたみする。
だが、亡くなられたこと自体は残念なのは至極当然だが、この方を純粋に「天台僧」としてみるなら必ずしも「惜しい僧侶が亡くなった・・・・」とは申し訳ないが正直あまり思わない。
なんとなれば、・・・・
阪神淡路大震災いかにあろうと「神も仏もない」は僧侶の言うことではないからだ。
実に大徳は残念なことを口走ったものだ。
その業火の中にこそ希望の光として神や仏の存在を知らしめるのが僧侶の役割だと思うからだ。
でなければこのような大災害の中、仏を一縷とする人の希望はこの言葉を聞いてどうなるのだろう。
市井の人でなく僧侶がいっているのだ。それも高僧である。
私は拙い市井の愚僧に過ぎず、瀬戸内大徳はその身は大僧正でもあり、あまねく世に知られた傑物だ。
社会的にも人品においても比べ物にならないのは月と鼈の比喩も到底及ぶまい。
だがこの一言は私はどうしても納得できない。
「そうですね」とはいえない。
いったい瀬藤内大徳は僧侶として何を説き、いかなるメッセージをを発信してきたのか?
愚かな私にはそこはよくわかりません。
数々、社会運動もされてきたことを挙げる人もいるようだが、社会運動は社会運動。社会運動は僧侶がしなければ駄目なことでもなければ僧侶でなければできないことでもない。
「衆生劫尽きて大火にやかれるとも我がこの土は安穏にして天人常に充満せり」
天台宗で根本経典とする法華経の最も中枢である自我偈のことばである。
この言葉が胸にあれば、眼前に卒倒するような光景を見るとも、軽々に
「神も仏もない」などと言うのは恥ずべきことではないのだろうか。
その時、たとえ無力にして何もできなかったとしても自己を責め、神仏を責めないのが宗教家であると思う。
神も仏もないなどと言ってはならない。
まして自然災害、戦争、疫病などの惨事が数限りなく起きてきたのが人類の歴史だ。
そんなことで仏はいないなどという幼稚なことを言うのなら僧侶になること自体に意味がない。
「お前は阪神淡路大震災の悲惨さがわかっていないからそういう戯言が言えるのだ。」といわれればそれはそうだとしかいいようはないが、それでもなおこの言葉は僧侶としてはまずいというのは絶対に撤回できない。
ダライ・ラマ猊下は東北大震災について「仏がいるならなぜこんな悲惨なことになるのか」とたずねられて人類の「カルマ」のなせるところと言って「では我々が悪いというのか?」と非難を浴びたが、私もたずねられれば法王猊下とほとんど同じことを言う。
相手が震災者遺族であっても聞かれるなら同じことを言う。
因果論
それが仏教の教えの根幹であり、それを説くのが僧侶の仕事だからだ。