引きこもりも高度に成長した社会においては一つの新しい生き方を模索する対象だろう。
かってのLGBTもそうなってきた。
その人なりの生き方がっていいのだ。
まるで無理やり穴から動物を引っ張り出すようなことはしなくていい。
もう、必ずしも誰のが同じような服着て同じような時刻に出かけて仕事しなくていい。
そう思う。
だが同時にそれは高度な文明に裏打ちされた経済社会においてはじめて成立する。
だからいつも思うのだけど・・・
社会が経済的に崩壊したり、人にかまっていられない天災などの続く状況においては人の多様性は一時的にせよ無視されざるを得ない。そんな時に地獄を見るかもしれない。
例えばどんなに引きこもりでも大水害などでは避難所に行かざるを得ない。
例えば、そんなとき引きこもりの人用の他人のいない避難所というのは考え難い。
その時には誰も責められないのだという覚悟はどこかに欲しい。
それは当人だけでなく社会全体にに欲しい。
行政にもどこまでも人を許容する力があるわけではない。
被災者が多く宿所が狭ければ、いかなる不都合あろうと老若男女問わずそこで生活せざるを得ないことだってある。
そしてそれは何かあれば一朝にして…明日にでもそうなる可能性もあるのだ。