障害者を殺戮した植松聖受刑者の絵画。
多面の菩薩。なかなかうまく書けている
彼は決して知識や知恵の劣る人間では無いのだろう。
ただし狂っている。
裁判の最後にいいたかったことは医療用の大麻についての意見だったという。
それを言う場でもあるまいに。
この絵もよく見てみれば、描写はよくはかけているがありがたみなど片鱗も感じない甚だ稚拙な絵だ。
仏画とは言えない。
仏画はよく書けてているかどうかなどより「ありがたみ」なのだ。仏像もそうだ。
この絵から垣間見えるのは殺戮を行うような憤怒の鬼神面の本体は慈悲の菩薩。
植松は自分自身を菩薩像に書いたのかもしれない。障害児を殺すことで自分は大慈悲を行ったつもりか・・・?
密教の理解は一つ間違うと実に簡単に魔道に落ちる。
「仏魔一如」という言葉がある。
この言葉も魔の側から言える言葉ではない。
仏の立場からこそ言えるのだ。
ましてや理屈の刀を振り回して言うことなどには非ず。笑止。
その所行こそがまず魔行だといえよう。
魔舌いかに巧みなりともすなわちちり芥のごとき戯論に過ぎぬ。
目の開いていないものの仏魔一如など、下等の魔類もせせら笑う戯言でしかない。
魔の姿をした仏はいくらでもある。
だが仏の姿をした魔は最悪だ。