「護られている。ありがたい。」で暮らすのが信仰
「仏所護念」という祈願があります。
要するに仏さまに守られますように。
なにも祈願無いのだけお札が月々欲しいという方にはそれでお出ししている。
本当は祈願するから守られるのではない。
護られていると思って生きるのが信仰だ。
その認識が仏縁を動かす。
本当に守られているかどうかわからないって?
その考えは信仰ではない。
信仰は科学とか検証とかじゃない。
拝んでご利益あれば信仰するというけど、「信仰することが一番の御利益」
それはなにかと言えば「守られていることへの安心」
私はプラグマティズム(実用本位)な人間です。役にたたないことは大嫌い。
信仰でも同じだ。
「宗教はいいことがあるとか、ご利益とかじゃないんだよ。」と若いころ、年配の人から判で押したように言われた。言わんとすることはわかるが鼻につくので「フ~ン、そうですか?どんな意味でも全くいいことがないならそんなものは私は辞めます。」と生意気に返していた。
今でもその思いは全く変わらない。
役に立つから信仰している。
なにもいいことがないものを後生大事にする。そんなのおもちゃが手放せない幼児と同じだ。
護られてるはずなのに災いに合いました。それはなぜ?
それは守られていてもなお自分のカルマのほうがよくなかったんだね。
でも守られていなければ、もっともっと大変なことになった。
そして、引き続き守られている。
何かあったから守護がなくなってしまったわけではない。
そんなの只の幻想?
そうかもしれません。
違うという根拠など何もない。まったくない。
でも只の幻想なんだという根拠もない。
知っているのは自分の微妙な感覚だけだ。
この感覚こそが信仰だ。
新宗教に行くと、なにかと「信心が足らない」というけど、努力して信仰なんか篤くなるもんか!信仰が足らないからと言って、人をいくら勧誘しても、いくら巨額の寄付しても思い込み強化の悪あがきでしかない。
ばかばかしい。そういうこと言う人は何もわかっていない。
自分がまず本当の信仰を持っていないに違いない。
だから私は人に信仰を強要しない。強要しても信仰は生まれるものじゃない。
他の信仰している人もさそわない。むしろそれやっていればいいじゃない。うちなんか来ても何もないよ。来なくていいよという。
あっちもこっちもやるのは意味ないからお断り。
そんなぐらぐらした人は来てもなにも意味ない。
何も得られない。またジプシーみたいによそ行くのが目に見えている。
期待感や当て込みの増大は信仰の成長ではない。
必要なのは「もう守られている」という「幻想」だ。努力じゃない。
それが描けるか否かだけ。
感覚がうそっぽいと思うならやめるだけだ。努力しても無駄だ。
ただし、この幻想は「只の幻想」ではない。
この幻想はおおきな力がある。
幻想なのに?
そうすべては幻想であり空だもの。
空には偉大な力がある。