近代インドの偉大な哲人クリシュナムルティはマントラを繰り返し唱えることは「コカ・コーラ」と唱えても同じことだと言われた。
彼は少年時代、神智学会で立ち上げた「金の星教団」で、弥勒の化身としてあがめられ、のちに自ら降りてしまった人です。
だから宗教にまつわる無理と思い込みのバカバカしさを内側からよく見てきた人と言えるかもしれません。
たぶん脳科学的にはクリシュナムルティのいうように「言葉のくりかえし」ということが与える影響はマントラもコカコーラも大差ないでしょう。
密教でも繰り返し唱えられる真言行法の代表は虚空蔵求聞持法、100万遍の真言を唱える。
当院で指導している不動尊一洛叉(10万遍)や准胝独部法もその類ですね。
ほかにも文殊50万遍もある。これは弟子で修行したものがあります。
ただ体験上、普通の生活をしながらするなら「准胝独部法」しかないかなと思う。
行として環境を整えないでやれば精神を病むこともあるし、内在する精神疾患が表出する危険性もある。
環境整えても一洛叉で中途、泡吹いて倒れた人もいます。
幻覚に襲われる人もいる。
乱暴に言えばそれらも結果として達成すればクリアリングになる可能性もあるとは思うが・・・やめてしまえばどうなるかわかりません。やったらやりとおせないといけない。そこができるかできないかは阿闍梨の見極めのいるところです。
いくらやりたいと言ってもさせてはいけない人もいます。
丁度、大峰山の入峯修行にいくら行きたいと言っても足弱な人は無理なのと同じ。
つまり皆、準備から初めて、食事も整え、外界を絶して修行するのが基本です。
ましてや問題解決のためにするものではない。
問題解決のためにするのは形は同じでも祈願であり修行とは言わない。
さて、これらはやったところで「コカ・コーラ」の々と同じか?と言えばそこは違うと思います。
もちろん生理学的なものや脳科学的には同じかもしれません。
だが心理学的は大きに違う。信仰が介在することで結果は大きく変わると私は思います。
「だから信仰はないけど、やってどうなるかやってみたいんです。」という人もいるだろうけど・・・
そういうことならクリシュナムルティの言うように「コカ・コーラ」と唱えて試したらいい。信仰抜きなら同じことです。