大変熱心な聖天様の信者さん。店舗に聖天尊のお札をお祀りしている。
毎日近くの清水を汲んでお供えし、朝晩礼拝を欠かさない。
拝むときは地面にひざまずいてまで祈る。
その姿にはびっくりしました。
それで思うにこの地域に聖天様がない。
だからここのおうちは家も大きいし、これだけ熱心ならばいっそ聖天様の御尊像をお祀りしてもいいかな。
年に一回くらい行って聖天様の祭礼をし、お守りを配るとかもいいかな・・・・・・それも大切な仏道の布教と思いまいました。
それで新たに聖天像を入手し、厨子とともに金箔押しまでして用意しました。
信者さんもおおむねそのつもりで考えてくれていたようですが・・・
「でもよくよく考えてみればこののち、ずっと聖天様をお守りしていくには家族の気持ちも大事だし、先行きご本人亡き後はどうなるのか?私よりひとまわり若い方ですからその頃には私もこの世にいない。ご家族は途方に暮れるかも。」という疑問。
同じことを行者さんや信徒総代さんからも尋ねられて・・・考え直しました。
地域に聖天様があるのはいいことだとは思いますが、・・・
霊狐さんからも「余計なことを考えるものではない」と短く言われた。
考えてみればそうやって聖天様のない地域に聖天信仰の場を作るというのはいいように見えて、その裏に一種の自分の功名心という邪心が手伝っていたようです。
ようするに最後まで責任を持てる形になっていないのがその証拠ですね。
それでは尊天もご迷惑でしょう。私どもの朝露のような命と違って久しいお命をお持ちですから。
悪いことならそうはならないのですが良さげなことというと、意識しないでも自分の都合をもぐりこませる邪心が働く。それは絶対良い結果になりません。
それはいけないことですね。恥ずかしい限りです。
この年末、大いに反省しなくてはいけません。
その気になった信徒様にも申し訳ないことです。