鎌倉から室町にかけての禅僧・夢窓礎石はその著書、「夢中問答」で修行者の出会う「内魔」と「外魔」についてふれている。
これはいわゆる禅定の世界でいう魔境のことだけではない。
禅師は密教もしっかり修行した方であり、幅広い修行者でもある。
「教外別伝」を強調し禅を最も重んじたが現代の禅僧的なイメージではない。
「内魔」とはその人の因縁のことである。
修行しだすと病にかかるとか、何事かが勃発して中止せざるを得なくなるなどと言うのは内魔である。
これも困るもので因縁は目には見えないが極端な話が大病したり死ぬこともある。
これはもともと持って居る因縁で外からくるのではない。
修行して死んでは元も子もないと思うだろうが、因縁はそれで一つ切れていくので来世には修行しただけのことはあると考える。
弘法大師の十大弟子真如法親王がインドに行こうと志し、マレーでトラにかまれて死んだ話があるが、これなども三世の因縁から見れば無駄死にではないと思う。
しかし、そういう凄惨なこともないとも言いきれないので修行は誰にでも勧めるものではない。
ましてや密教を修行すればきっと幸せになれるからしたいなどと言う世福を願う動機には甚だ疑問だ。
私は幸せと思うがその幸せとは何かが違う。
「外魔」はいわゆる天魔のことである。心の闇などでなく実態のある実類の鬼神だ。
修行者を妨げんとする魔王 波旬とその眷属である。
世の中に魔王とか魔障いうものがあるのか?
多くの日本の仏教者はそんなものはないというだろうが私はあると思う。
私の師匠は修行がはじまればすぐに摩類はついて回ると言って、護身法、洒水に続き、三供印を伝授してくださった。
三供印が餓鬼など、ふだん物が食べられないものにお食事を上げる印真言である。
本物の魔はもっと行が進まないと出会うことはないが最初は餓鬼類が来る。
彼らは魔王の眷属ではないが、これに紛れ込んで魔も来る。
修行者に常に付き従う隙をうかがう。
魔王の眷属ではないが外には厄介なビナヤキャというものも来る。
餓鬼のように腹が膨れればいいというのではなく、人の悪煩悩にリンクしてくるので厄介である。
修行者を惑わす強力な悪魔だ。
聖天は彼らを統べる王であるがビナヤキャ自体は聖天を通さずに勝手に動くときは悪魔の類となる。
聖天は悪鬼ビナヤキャの王であるが内証は菩薩であるのであえて聖なる天というのだ。
古来、灌頂道場や大きな寺院では聖天を祀るが、これは福徳を祈るのが目的ではなくビナヤキャを調和するためである。つまり悪さをさせないためだ。
天魔は仏道修行の練達者にならないと出会わない。
夢窓漱石禅師に言わせると欲界頂に住む第六天魔王は欲界の衆生はすべて自分の所有と持っているそうだ。ゆえに欲界から解脱しようと志す者は危険人物なので妨げようとするのだそうだ。
だからかなり高等な修行者が出会う悪魔である。
修行者でなくても昔からこういうものに敏感な人はいる。
修行すれば彼らの障礙もなくなるだろうと思ってか修行を希望する人もあるが、これは結果的に積極的に戦いを仕掛けることになる。
やすやすと解放されると思うのは大きな間違いだ。
故に相当の菩提心がないなら得度して修行などしないほうがまだしもだろう。