三昧と入我我入のテクニック
密教には仏と一体になるための観法があり、簡単に言えば梵字や真言が本尊と行者とを行き来する輪のようなものを運心するのですが、これについて今朝質問がありました。
そうやっていると自分がお不動さんになって本尊のお不動さんが自分になってしまう感覚がする。
それでうまくできているのか?という質問。
できているともいえるし、そうでないともいえる。
その故は過程としてはそれも含めて色々あるといえる。
それだけのこと。
あくまで過程としてはいいが結果では困る。
つまるところはそうした観法も三昧に入るためのテクニックであるが、テクニックにこだわりすぎるのは導入部だけで、いつまでも、どこまでもそれにこだわるのでは行の妨げであり妄想と化してしまう。
邪魔だ。
( ヨーガでは三昧つまりサマージは一時的に呼吸が止まって、脳波がどう…と生理的に説明されるが密教においてはそういうものではない。それは滅尽定の類で仏教で必ずしもよしとする境地ではありません。 あくまで脳が普通に働く明晰な覚醒状態でおこることだ。上座部でも釈尊もそのような深い瞑想レベルからは少し離れて悟られたという。ヨーガの八支則におけるサマージとは別に考えられたい )
濱地天松居士は掃除をするには掃くための箒木が必要だが、どこまでもいつまでも箒木がそこにあれば今度はそれがゴミになるといわれた。
昔、時宗の開祖一遍上人が兵庫の宝満寺で法灯国師・心地覚心を訪ね自己の心境を歌にして
「唱えればほとけもわれもなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして」とよんだところ。
「未徹底!」と看破された。
そして「唱えれば仏も我もなかりけり ただ南無阿弥陀仏あみだぶつ」と読みなおして示したという。
南無阿弥陀仏の声を聴く己れが残っているようではいけない。
そういうところにおいては密教も禅も念仏も尽きるところは同じだ。