開眼供養に般若心経一巻で気合一発のところもある。これで大丈夫か?という質問。
大丈夫か否かはわかりませんが、顕教にはもともと開眼次第はあっても経典に作法はなく、奈良時代、東大寺では導師が筆で目を入れたといいます。
一休さんは地蔵菩薩の開眼で尊像におしっこかけた。
施主は怒ったが霊験は現れた。
すべて境涯の問題。
だがここで「もとより仏ならざるはないから何でもいい」というのは論外な話です。
それならばそもそも開眼供養も無用です。
作法というものがある以上は密教には密教の作法がある。
仏は虚空に遍満しているがあらゆる作法は聖者ならぬわれらのためのものだから。
私においては一尊法を修行して境涯にかかわらず、定型の密教作法でいたします。