密教では基礎行である「加行」をいい加減にしたものは一生いい加減崩れたものになると言われている。
だが、これは密教に限らない話と思う。
基礎に対するその人の向き合い方にすべてがある。
初発心すなわち大覚位に同じ。
それが大乗の考えだ。
以前うちには「冥途の土産コース」というようにうちわで呼ぶ「得度」のみで終わるコースがあった。(今は基本的に廃止)
行まではしない。それはそれでいい。
だがひとたび行を始めたら完遂しないというのはダメなのだ。
すこしでもやればやらないよりいいというものではない。
初行はいってみれば運命の大手術だ。
たとえば手術をちょっとやって開腹したままでは大ごとだ。
死んでしまう。
はじめたら最後までおわらないと意味ない。絶対にやらないほうがマシだ。
怠転懈怠は前に進まぬよりはるかに悪い。
この意味で相談があれば別だが、信者レベルでも「講」を自分の意志で「辞める」ときめた人はそのまま理由も聞かず是とする一方、再入会はない。その時も理由は一切問わない。
「不退転」ということを大事にする。
とりわけ密教にはそういう不文律がある。
それは授けた人間の責任でもある。
中途でそのままという人間は信用に値しない。
どうしても完遂しないなら師弟の縁を切るのみだ。
大体そういう人は何事にもルーズで中途半端だ。
そういう態度で運などよくなるわけがない。
それでいて人生が良くならないと嘆く。
一眼の亀の浮木の穴にあたるような稀有な思いをなせというのが仏法。
要するに片目の亀さんが大海で泳いでいて、ちょうどすっぽり頭の入るような穴のあいた浮いた木に当たるようなものということだ。
「面白そうだからやってみたい」など軽く考えるのはふざけた話でまっぴらごめんだ。
またよその徒弟で中途半端に行をやめた人を再度受け入れることも理由の如何によらずお断りしている。
何度やったところで人間の質が変わらねばおなじことだ。