この前、曹洞宗の方が見えて座禅の話になった。
「只管打坐」というのは密教のようなイメージのある観法はむろん、本当に息を数える数息観すらもしない。
ただ座るのだという。
私の母校は駒沢大学だが心理学の出で仏教学や禅の修行は駒沢ではしていない。
大学でしたのは禅学特講というのが必修だっただけだ。
でもこのただ座るというのはやってみるとなかなか気持ちがいい。
難しいようだがな何かをするのではなく、なにもしないのだ。一切何も。
私のする座禅などどうせ「野狐禅」の域を出ないが実際やってみれば要はボーッとしているのと同じだ。
いろいろな思索の放棄 イメージも無論追い出す。
心の断捨離だ。
天台のような三諦円融の順逆も密教の月輪のイメージもない。
金剛経の無我相とも違う。
そんな概念を全部外してしまう。人間だから精神活動はなくなるわけではないが言語がなくなる。
まあ。自然の樹木のようになれればいいのだろう。
そこに本来の恵み 自然智がある。
樹木に思考はないが自然智によって生きている。ほかの動物はほとんどそれで生きてる。
人間は思考に偏りすぎている。
そう考えると平生でもボーっとすることは大事なことではないかと思うのだがどうだろうか。
門外漢があまり知ったようなことを言うといけないのでここらへんにしておく。