今の浄土真宗ではみなすでに往生している。
これから往生する衆生はない。
とされているようです。
よって葬式も法事も感謝の念仏に終始する。
その理由は法蔵比丘が四十八の大願を立ててすでに阿弥陀仏になり給うているのだからその願はすべて果たされていると見るのだそうです。
ということは念仏十念すれば往生するというのは果たされた願いだということ。
実はこういうことをはっきり言いだしたのは蓮如さん以降らしい。
だが十念しないで死んだのになぜすでに往生しているといえるのかはどう思うのだろうか?
こういう理想主義の塊みたいな教義は私は信じられません。
私は決して門徒ではない。だが親鸞さんの言うことはまるきり分からなくはないのです。
その故は私は歎異抄における「念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また 地獄に堕つる業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり。」という言葉こそが親鸞さんの放下であり悟りだったと思っているからです。
むしろこの考えは禅に近いものすら感じます。
ましてや親鸞さんがここで述べているのは「往生浄土の種としての念仏」で、すでにみな往生している感謝の念仏などというミョウチキリンなことは言っていない。
失礼ながらそれは親鸞さんからは離れた考えだと思う。