一応「首都キエフ防衛、露軍退散」の祈りは届いたように思います。
そうした祈りにかけたのはキエフが落ちればウクライナは総崩れだと思ったからです。
そうなれば再び大国は小国を踏みにじり、小国もまた大国に追随して生きる以外ない。
全世界はお互いが武器を以て威嚇し圧倒しようとする暴力の論理に逆戻りです。
むろん敵に弾丸を撃ちかけるわけではない。救護に走り回れるわけでもない。
祈ることしかできません。
ましてや私の祈りは大勢の何万、何十万という人のウクライナを救いたいという祈りの中の大海の一滴でしかなのですが。
明日は聖天供結願。門下のものもそれぞれに祈っています。
戦争を肯定するのか?
私は抵抗は一方的虐殺に勝ると信じます。
さあ、次は完全に撤退してもらうためにまた祈ります。
思うに神仏自体に敵味方の心はないでしょう。
ただその世界から多くのものを引き出せれば結果は大きく変わる可能性がある。
また不自然な野望は時至れば自壊の要素を持ちます。