勝蔓経に「生死とは如来蔵による(中略)如来蔵あるがゆえに生死を説く」という。
如来蔵は私たちは如来をうちに蔵している、同じく如来のうちに蔵されているという思想です。
仏様と不即不離だということ。
我々の生死そのものがその「如来蔵のすがた」だということです。
有難い!
だが有難いと思えない人もいるでしょう。
いても当たり前だと思う。
むしろいるのが当然。
生死そのままなら如来蔵だろうがそうでなかろうが何の変哲もないじゃないか!
何も変わらないなら仏道など修行する意味がどこにある。
なにがありがたいのか?
実は一番大事なところはそこだ。
如来蔵さながらの生死には生きている喜び、悲しみ、苦しみ、そしてすべてが無くなる死も含めて仏が常にそばにいる。
仏とともにある。
何も変わらなくても「これでいいのだ」という大安心がある。
形の上ではなにも変わらなくても「これでいいのだ」で生きられる。
ほとけによる「絶対の肯定」
法華経でいうなら迹門の正宗分でいう「如是」ということだ。
これこそが信心の値打ちだと思う。
赤塚不二夫先生の名作漫画「天才バカボン」
バカボンは実は縛伽梵で仏の意味だそうです。
バカボンのお父さんの「これでいいのだ!」は偉大な説法だ。