ここでいう覚醒は小さな悟りとでも言っておこうか。
大覚に至ることは困難でも修行していれば至るべくして至るところはある。
そうでないなら仏教など意味はない。
法門により覚醒は様々。
白隠禅師は法華経を繰り返し読誦するうちにはじめてその神髄に触れ号泣したという。
そういうこともあろう。
だが・・・多くの場合、修行者が体験するファナティシズムや感情の高ぶりによる幻覚は密教の覚醒とは違うことが多い。
それらは特殊な状況に長い時間さらされ脳の生み出すただの錯覚だ。
昔の蠟八大接心などでもそうした状態から発狂した人も少なくないようだ。
霊能者というひとたちの体験もここまでで止まるか否かだ。
そこを超えればもはや、ただの霊能者ではなく霊覚者と言えよう。
感情の高ぶりからぼうぼうと涙を流し、筆説に尽くせないというのは「言辞ノ相寂滅セリ」の境涯ではない。
何が起きたのかわかっていない。そこには興奮しかない。
それらは覚めてみれば何も残らぬ。
それを「素晴らしい体験したの!」などと吹聴して歩く愚かしさは夢から覚めやらぬ人のようなものだ。
そしてまさにそこに何も覚醒はない。
密教の覚醒の多くは夜が明けるように静かであり、かつその訪れるときは急速だ。
気が付いたら闇から明るみに徐々にはっきり見えなかったものが見えてくる。
私のような愚鈍の身でもそのくらいはなんとなく分かるつもりだが・・・
今の僧侶の多くはそこまで修行に興味ないから頭であれこれ悟りの世界を理屈で推測、想像するのみなのかもしれない。