室町時代の天台僧に存海という人がいる。
彼は顕密二教にわたって禅定や観法を練った方だ。
その存海さんの「行者用心集」ににわかに人が集まり大きくなるような拝所は魔の所為であるという。
これは現代でも十分学べる言葉だと思う。
昨日、新宗教は魔の所為かと聞かれたがそんなことはなかろう。
一昔前の教祖様はみな非常な行をしている。
各々説く教えに違いはあるが一個の行者としての在り方をみれば並々ならぬ方々だ。
宗教者でないものも、たとえば江戸時代の天理教祖である中山ミキ刀自にしても、洗うがごとき極貧のなかで凄惨な人生を送りついに神がかりとなる。
今多いように楽々と神様のふりをして愚婦愚民をたぶらかす口先三寸のみすぎよすぎではない。
今の教祖様たちは修行ではなく主にスピリチュアルなセミナーなどで生まれてくる。
それゆえに人生体験も乏しく、人間というものへの理解が乏しい教祖様もいる。
人生のしのぎを削るような体験がない。
むかしの剣術でいえば道場剣法というやつだ。
しかも、そのセミナーの主催者が魔類なら魔のお店分けだ。