やたら何か密教のような専門的で特殊な拝み方をしないと祈りが神仏に通じないと思っている人がいるがそれは違う。
例えば何としても浴油で祈ってほしいとか。五体加持してほしいとか・・・
そんなのは行者が状況から必要に応じて選ぶものだ。
一番大事なのはそういう印だの真言だのなんちゃら法と言った祈祷のスタイルや技術ではない。
故にどんなに一生懸命拝んでまったく通じないことは大概、専門の行者に大きな祈祷で奮発して拝んでもらっても叶わない。
私はよく「かないませんよ。いくら拝んでも」ということをいうのはそれです。
そういう人はもう自分では拝まない。信仰ではない。せいぜい金を出すだけ。
ひたすら法力のある人に拝んでもらうことだけを考える。
問題がどこにあるのか、一向にわからず、もっと法力のある人はどこかにいないかと、欲のまにまにあっちの神様こっちの仏さまと探し回る人があるがその姿はまるで「法のハイエナ」だ。
基本は自分が向き合っているか否かなのだ。
さらにいうなら神仏に向かうその心に「誠」があるか否かだ。
誠とはそれは謙虚ということに他ならない。
神仏をただただ願望成就のマシーンと思っている人には思いも及ばない。
「祈るだに誠なき身の祈りにはかなわなきこそを験なりけれ」という歌もある。
そういう方はあじわうべき歌だ。