五戒の最後は不邪見戒です。
この不邪見は僧俗一貫の戒。
ここはふつうは不飲酒戒だが、今は形式に流れやすい。
飲酒戒を受けていながら平気で酒をあおるなどは仏様を馬鹿にする行為だ。
だから敢えて不邪見を以てしています。
邪見とは因果論をとらぬことをいう。
ものごとには原因と対応する結果がある。
もしも、それを否定するなら何事も改善はできない。
物事を良くするには元をただせば結果は変わるという流れが大事な考えなのだ。
同時にこの考えは結果がどうであれ、仏陀に帰依すれば超自然的な力でどうでもなるという考えの否定である。
そういう考えを「迷信」という。
その意味では仏様は全知でもなければ全能でもない。
そんなのはただの理想論で何の役にも立たぬ。意味もまったくなき戯論の類だ。
仏には無窮の可能性はあっても、偉大な救済者であっても、それは全知全能の存在などではない。
我々は無限の可能性の源たる仏をよりどころとして自分の人生を創造していく。
自分の人生を良くするのはあくまで時間を重ね自分の精進により得られる結果だ。
大乗仏教とはそういうことだと思います。