仏教における祈祷で効験があるのは法の力です。
法の力は人の力ではない。
超能力や霊能力とはまた違うものです。
では法を行えばだれでも効験があるのか。
そう簡単ではない。
法には法というものを盛る器がなくてはいけない。
それが修行者の器量であると言えます。それが基礎基盤。
とはいっても修行者の基礎は超能力の開発などすることではない。
スピ系の人は即そこに行きたがるけどそれは全くない。
すぐに密教行法とか基礎もできていないでやりたがる。
すぐに教えるものと考え違いしているんですね。
まず基礎を作る。
てっとり早く言えば貪瞋痴を戒める。
要するに感情や欲求のコントロールがうまくできること。
欲を滅するとか我慢のことではない。
欲の完全消滅は生命の枯渇や死しか意味しない。もっとも意味がない。
そして我慢はコントロールできていない状況です。
だから堰を切れば意味なくなる。
釈尊が言う「良く整えらえた己れ」をつくること。
ただの我慢でなく慈 悲 喜 捨という四無量心を動力に修行をすすめることです。
形としては布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧という六波羅蜜ということになるのですが、密教の行法や修験道の入峰などはこのうちの禅波羅蜜に当たります。
その前の布施、持戒、忍辱、精進が人づくりの修行で前提です。
特に最近は忍辱がない。
少しでも気に入らぬとブウブウ遠慮なく不平を言い、師匠にああして、こうしてという都合や要求ばかりする。強く注意すれば負けじとブチ切れる。
修行院で厳しく指導されればパワハラなどと言い出しかねない。
他にも挨拶もろくにできない人。
無礼なふるまいを無意識でする人。
例えばものをたずねてきて答えをもらっても礼一つ言わない。
電話でもそういう人がいる。なにを聞いても答えるのが当たり前だとでも思っているんだろうか?
話にならない愚か者だ。