こんな話を聞いた。
ある芸能人が好きで好きで夢中な一人、それに対して「あんなもののどこが・・・」呼ばわりした一人。
それで流せばよかったのだろうが言われた側は黙っていない。
なぜなら「芸能人」ではなく、「芸能人を好きな自分」が攻撃されていると感じるからだ。
そこで相手は「自分が嫌いな芸能人」を嫌いといって何が悪いと応酬する。
そのことで口論になって、ついに絶交したという。
あまりに夢中だと余所眼にはおかしく見えるのは事実かもしれない。
ちょいとからかう心も起きるかも・・・
でも思うのは「あんなもの」呼ばわりした人は、結局マイナスの自己表現をしたわけです。
マイナスの自己表現とは私は○○が嫌いですということで自分を表現すること。
拒絶、拒否の表現。
それは軽く相手に警戒的な意図を含む。
つまり「その話をするな」とかいうメッセージになる。
そう言うメッセージが必要な場面はあるでしょう。
例えば人をあしざまに言って盛り上がるとかに対する拒否。
でも自己表現に使うのはよろしくない。
私は○○という芸能人を好きな人は拒否ですというメッセージを送っている。
友達とはことをともにするから「ともだち」という。
相手が夢中になっていることにその考えは「ともにできません」メッセージを強烈に発したら当然影響する。
無論好き嫌いは自由だがそれを表現する場面なのかどうかの判断は別だ。
たとえば野球の話で湧いているところに「野球なんかどこがいいのだろうか、まったくつまらない。」といえばいわば攻撃をくらわしたことになる。座は白けて人の興をそぐ。
野球に興味のない人だっているのは誰でも知っている。
だが、その場にわざわざそういう「ことば」を投げかけることは、野球ではなく、人への拒否と攻撃になるのだ。
必要もないのにそういう自己表現をするのはいかがなものだろう。
その表現をする裏にはわれ知らずもう悪意と攻撃性が潜んでいるということを知って使うことだ。